2012年11月24日土曜日

書物の変容

いまごろの大学生世代の人々にとって、書物の平均した姿とはどんなものだろうか。おそらくは、カラー写真の多用は当たり前、上質な紙ももちろんのこと、ハードカバーまで実用の意味から必需で、読み終わったら保存するのではなく、他人に再利用されることを美徳とし、そして同じ内容のものはたいていなんらかの電子の形で入手できる。こんなところだろうか。

講義の内容も関わって、巻物から冊子本への展開を説明する切り口を考えた。歴史的な事実として書物のあり方のこの移り変わりは、思った以上の時間的な隔たりを要していた。その理由とはどこにあったのだろうか。巻物に比べれば、冊子本の場合、携帯性においても、そしてなによりも内容へのアクセスの利便性においても圧倒的に有効なものだった。なのに古代の人々は121124どうして巻物をあんなに長く拘っていたのだろうか。そこで、いささか思いつきでつぎの仮説を案出してクラスで披露した。すなわちなにはともあれ紙が貴重品だったころのことである。巻物に比べて、冊子本に仕立てるためには、一枚(一帖)ずつに費やす背の部分の空白は、あるいは途轍もない大きな浪費だったと考えられていたのではなかろうか。教室の中では、どうやらささやかな同感が戻ったような気がした。

そこで、千年以上も用いられてきた紙を代えるものが今はようやく現われてきた。まさにタブレットなどのガジェットと共に流行の一途を辿りはじめた電子書籍である。ただし、ここでは書籍という前提で紙から電子への展開に目を凝らすものだが、じっさいのところ、内容を文字をもって伝えるということでさえ、媒体の変容によって相対的なものになったのではなかろうか。文字文章を読むことは、かならずしも唯一で最上位のものではなくなることを、これまた忘れてはならないことだろう。時を同じくして、毎週聞いているラジオ番組は書籍を特集を放送した。きわめて聞き応えのあるものだった。

On The Media: HOW PUBLISHING AND READING ARE CHANGING

2012年11月17日土曜日

二つのオンライン授業

夏から準備に取り掛かっていたメトロポリタン美術館蔵「保元平治物語屏風」をめぐる講義は、いよいよ来週の予定となる。それに先立って、日本の、そしてカナダの知人の教授の好意により、今週は二つのオンライン授業を担当することになり、やや角度を調整して、同じ屏風を取り上げた。

インターネット環境の発達により、オンラインを用いての会議や授業などは、いまやかなり普通なものとなり、技術的にはさほど新鮮味はない。しかしながら、それでも慎重な準備が必要とされ、しかも本番でのさまざまな対応が迫られることがある。そういう意味で、先週の二つの授業は、まさに対照的でいて典型的なシナリオを経験させられた。二つの講義のうち、一つはテレビ会議など専用のソフトを選び、一つは数年前から使ってきたビデオ会議の機材を用いた。前日まで実験したにもかかわらず、二つながらも予想しなかったハプニングがあった。前者のほうは、理由不明で一方向のみ音声切れとなり、後者のほうは、導入当時は高価な機材だったにもかかわらず、手元のノートパソコンの解像度に対応せず、画像送信が適わなくなった。本番最中での判断なども含めて、前者は別の通信ソフトを立ち上げ、後者は画像情報のみローカルのパソコンから映し出すといった方法で乗り越えた。技術がどんどん進化し、変わり続ける中、安定して使い続けられるものはいまだなかなか得られないという現状をあらためて認識させられ、オンラインの利用は、その分柔軟に対応しなければならないと知らされた。

肝心の授業のほうだが、以上のような苦労が学生たちにはほとんど察知されなかったくらい、講義も議論もいたって自然かつ集中的なものが実現できた。しかしながら、取り上げた絵はあまりにも生々しくて惨烈なものばかり詰まっていて、そのような血なまぐさい描写への凝視を強いたからだろうか、活発な議論よりもしんみりとした雰囲気がなぜか深く印象に残るものだった。

2012年11月10日土曜日

能入門

121110今週の講義テーマの一つには、能があった。23人の学生を相手に、「生田敦盛」をとりあげ、英訳と原典の両方をいっしょに読んでみた。ほとんどの学生には、このストーリも、そして能という演劇も初めての経験であり、どのような反応が戻ってくるのやら、楽しみの一つだった。能舞台や面などの説明を最小限にし、印象に残るような、インパクトのあるものに集中するように心がけた。講義でストーリの説明には慶應大学所蔵の絵巻「小敦盛」の画像を取り出し、そして学生のグループ発表では動画を二つ上演された。ほとんどの学生は、前のめりになってスクリーンを見つめ、質問もたくさん飛び交った。

それにしても、学生グループの動画選びは上手だった。上演は計5分程度の時間しか使わなかったが、英語の説明が施された能の説明、囃子まで外国人編成による「敦盛」の舞台のハイライトが選ばれ、しかも最後にちらっと外国での舞台なので鏡板には松がないことをしっかり指摘しておいた。外国人相手に作成された能紹介の動画は、BGMの音楽や、ハイライトの囃子が慎重に用いられ、伝統芸能でも編集によってこうもモダン的なものになるものだと感心した。そのせいもあってか、普段あまり発言しなかった学生は、手をあげて日本留学の経験に触れて、留学先では講師が実際に教室で謡いを披露してくれて、周りの学生たちがみな居眠り状態に入ったという思い出を語り出した。いうまでもなくほかの学生たちは一様に神妙な表情だった。

ちなみにクラスで使用した画像は電子公開をされているもので、サイトへのアクセス方法まで実際にやって見せた。一方の学生たちの動画は、当然なようにYouTubeからだった。質の高い電子リソースはここまで使いやすいものなったと改めて実感した。

2012年11月3日土曜日

画像記憶

01aa現在進行中のクラスからの話題を一つ記しておく。二週間一度に一頁程度のクイズを書かせている。授業内容への理解を確認し、学生たちに自分の進め具合を把握してもらいたいというのが基本の狙いである。先週のそれには、最後の一問に、クラスでは違う日に併せて三回も見せたあの神護寺蔵の頼朝像を小さく出して、像主の名前を書かせた。鎌倉時代がテーマなので、頼朝という名前は覚えておいたはずだ。クイズの紙面にすこしでもめりはりをつけようとおまけのつもりだったが、結局は半分以上の学生を悩ませる難問となってしまった。

これまでのクラスで、肖像画を五、六点見せておいた。とことん混乱させたところまではとてもやっていない。見せる側の予想から言えば、公家装束か僧侶の格好なのか、画像内容があまりにも離れていて、いたって簡単に見分けがつくはずだとばかり考えていた。しかしながらどうやらそこには思わぬ落とし穴があった。あまりにも予備知識が少なく、そのような質問も予想していなかったがために、初心者の目にはむしろ新鮮な情報が氾濫し、対応しきれないでいたらしい。しかも、ビジュアルの内容が対象となれば、どうやらまったく違う記憶の能力が要求される。そのような用意をして取りかからないと、意外と記憶になにも残らないという結果になってしまう。

記憶の仕方に関わる課題ならば、それだけに訓練によってその効果が飛躍的に向上されるものである。言い換えれば、その気になれば、もうすこし紛らわしい内容でもきちんと見分けることが出来る。はたしてクイズの後のクラスで、今度は義満の肖像を見せたら、クラスに俄然ささやかな緊張が走った。同じ質問をしても芸がないから今度のクイズではもう聞かないよと、さっそく冗談半分に雰囲気修正に乗り出した。