2013年12月29日日曜日

聖書絵

パリ・ノートルダム大聖堂は、建築全体をもって宗教の圧倒的な威厳を伝えている。それのみならず、建物の中に入っていれば、絵、座像、窓ガラスなどさまざまなメディアを用いて、宗教の教えや神の奇跡を語っている。一例として、正面十字架の裏に回れば、かなり目立ったところに彫刻のレリーフが装飾されている。簡潔な構図、絵の下に添えられた横書きの解説、そしてなによりも聖書ストーリの内容など、どれを持ち出していても、絵巻と良い比較になる。

聖書に述べられた壮大な物語、エピソードの詳細をめぐる重厚な伝統に照らし合わせて、レリーフの内容は、あまりにも簡略だ。人物も、背景も、描かれたアイテムも、幼稚なぐらいに感じさせる。しかしながら、それでも眺めてみれば、はっとさせられるものがあった。一連の構図の最後の一こまは、あの最後の晩餐だ。ただこれについて、あのダ・ヴィン131228チの絵があまりにも鮮烈で影響が大きかったせいか、説明文を読まなければまったく内容に気づかない。まずは人物たちが一列になって食事をするのではなく、半分は座り、半分は立ち上がっている。しかも身振り手振りで語っているイエスと思われる人は、たしかに真ん中に位置するが、食事についてわけではない。あれだけ著名な場面でも、ここまで自由な構図がなされていたんだと、あらためてはっとさせられた。思うに、このテーマの構図を集めるだけでも膨大な分量になり、きっとしっかりした研究がすでに結ばれているに違いない。しかも世界各地に現在なお残されている実際の画像例の数を想像するだけでも、無尽の発見が待っているに違いない。

レリーフの説明には、いくつかの言語によるものが添えられていて、日本語文は「よみがえったキリストの出現」となっている。悠長なキリスト教の歴史から考えれば、言語表現にもそれなりの伝統が出来上がっているだろう。ただすなおに読めば、表現自体はあまりにも吟味されていない。同じところの中国語訳はいっそう怪しい。場所は場所だけに、説明文の翻訳者の表現能力を疑いたくはないが、これだって、りっぱなミステリーだ。

2013年12月21日土曜日

大英春画

131221真冬の小雨の中、大英博物館の前に立った。十分に予備知識をもって訪ねているにもかかわらず、ギリシア風の柱の間から飛び出した巨大な「Shunga」の文字には圧倒され、言いようのない驚きを感じた。

大英博での特別展は、きっとつねにこうなるのだろうけど、遠方からの一見の客にはすべて特別なものなのだ。まずは料金システムが違う。あれだけの博物館が無料なのに、この展示ホールに入るには、ほぼ日本の普通の美術展と同等の入場料を払わされる。また、ほかの展示はほぼすべて写真の撮り放題なのに、ここだけは撮影禁止だとしっかりと釘を刺される。そして一旦中に入ってしまえば、展示を見る行列の進行スピードは極めて遅く、みんな熱心に長文の解説文を最後まで目を通す。展示の内容と言えば、肉筆絵の比重はあきらかに高く、それも巻物や掛け軸など、普段さほど多く紹介されないものが多い。しかもなんの前触れもなく西洋の、それも時代違いの春画をすべての展示より前に置かれ、中国の春画、明治に入ってからの写真などをあまり関連もなく差し込まれ、終りには学者たちのシンポジウムの様子が写真入りで掲げられて、内容は内容だけに、微笑ましいお愛嬌ものが多かった。そのような企画側の配慮に十分に応えて、見学者の数や質は素晴らしい。日本での特別展と比べれば、見学者の数がおそらくかなり見劣るものだろうけど、智的な関心を呼び起こしていることが一目で分かる。一人だけの、学者然の見学者が多いだろうと想像していたが、そのような顔は男女問わずたしかに多数見られた。一方では、親しげな同性の友人、年が離れて母と娘に思わせる連れ合いなど、もの静かに会話が交わされ、用いられている言葉もずいぶんと聞き分けられないものがあった。対して興奮気味の浮いた若いカップルはごくごく少数派なのだ。

展示の場は大英博だということは、春画のことを改めて考えさせている。エジプト、ギリシアの古代石像が圧「館」の空間だけに、英雄、宗教、死と弔いなどはベースとなる。その中にあって、普通の人間にぐんと近いこのテーマが大きな関心を集めたことは、いたって当然に思えてならない。

2013年12月14日土曜日

オバマ・コード

131214一つの短い動画が話題になっている。画面に踊りでたのはあのオバマ、語られたのはコード。しかしながら、ここの「コード」は法律や政治と関係なく、字面の意味の暗号でもなくて、あくまでもパソコンのソフトあるいはタブレット機械用のアプリを創りだすプログラミングのコードである。これを習おうと提案する有名人の一人に、オバマの名前が加えられた。アメリカ大統領からの公のメッセージとしては、なぜか突飛な感じをしてならない。

はたして普通の人々にはコードの書き方、あるいはその仕組についての基本的な知識が必要だろうか。はなはだ疑問的だ。一時期かなり書き続けた個人的な経験からすれば、パソコンのコードというのは、なにもみんなのみんなが触ってみる、試してみるようなものではない。そもそもソフトやアプリの作品とそれを構成するコードとの間にあまりにも距離が遠い。どんなコードにせよ、それが狙っている結果を実現させるには、特定の道具に頼り、その道具がさまざまな方針をもってコードの発想と構成を決めてしまう。言ってみれば、プログラミンは言語だと呼ばれても、その本質においては、約束事の度合いがかなり多い。そのため、道具は千差万別で、コードそのものも汎用性がなく、共通する基準など存在しない。加えて、実際のコードの規模は大きく、意味ある作業なら簡単に百行、千行を単位とするコードが必要となる。子供にでもできるなど、コマーシャル的な宣伝文句は頻繁に目に飛び込んでくるが、はっきり言って間違った先入観を植え付けてしまい、誤解をさせてしまうほうの不安が大きい。突き詰めて言えば、パソコンのコードは、文章を組み立てる文字とは根本的に異なり、そもそもだれでも分かるような文字の機能を狙っているわけではない。その意味では、まさに暗号そのものだ。

もともとオバマのスピーチには、「すべてのアメリカ人がコードを習おう」との副題が付く。すなわち国民全体に向かっての、教育をめぐる一つの発言である。とある集まりがあって、みんなの前でこの話題に振りかけたら、ある情報工学の老教授は、「自分がとっくに言っていても、だれも反応してくれないのに」と、わざとらしい苦言で一堂の笑いを誘った。しかしながら、その教授本人は、情報工学には未来がないとの持論を延々と展開したものだった。教育におけるコードは、教育のありかたを含めて、自明なようでいて、孕んでいる問題は大きい。

President Obama calls on every American to learn code

2013年12月7日土曜日

タイマーを持ち込めば

テレビのニュース番組から「反転授業」という言葉を知った。小中学校などで実験的に取り行われている試みで、かなり新鮮なものとして受け止められている。この言葉は、たいていの国語の辞典にはいまだ登場していないが、ウェキペディアを調べてみたら、三ヶ月ほどまえに登録されている。いうまでもなく、北米の現場では、均一した授業内容への期待が薄い分、かなり頻繁に採用されている。

大学の教室は、なおさらその通りだ。今学期に担当している文学のクラスでは、全体の五分の一程度の時間は、学生たちに講壇に立たせ、各自に調べておいてもらった内容を発表させるものである。今学期は、とりわけわざわざ大事な内容の一つや二つを関連の講義で避けるという方針を取り入れ、けっきょくはそれの半分以上のものは、きちんと学生たちがカバーしてくれて、大いに感心した。同じクラスは金曜日に最終講義を迎えた。最後の二回分の講義は、学期末レポートの口頭報告に当て、学生全員にそれぞれ五分の持ち時間を与えた。似たような口頭発表はこれまでも数回やってきたが、131207こんどははじめて大きめのタイマー時計を持ち込んだ。その効果はまさにテキメン。発表者も聴講者も一様に緊張感を持ち、教師としては余分なことを考えないでただただ質問を投げかければ良かった。それも学生たちの熱心な議論を言葉通りに割り込んでの、気楽なものだった。一つのささやかな仕掛けでクラスの雰囲気はこうも変わるものだと、あらためて実感させられた。

一方では、なにともあれ、大学の日程表などでは授業のことを間違いなく「レクチャー」と明記している。なにもかも学生に作業させたらいいということではけっしてない。しかもこれまで自分が受けてきた教育のせいか、どうしてもクラス全員にむかって一方的にしゃべってはじめて充実に教えた「気」がする。つぎの世代の教師たちはきっと違うと、密かに見守りたい。